ある日のこと。

 それはすこし前のこと、夏の日の遠い思い出のことだ。


 俺は朝から暑い中を日中さんざん歩き回ってひと段落、ちょっと歩いていこうと「散歩」とシャレこんだ。

 早めに仕事が終わったことで街の陽射しは暑いが気分はすがすがしかった。

 ランチタイムの後、都会の喧騒は夏の暑さにかき消され、すっかり静まり返っていた。



 俺は大使館や公使館が集まる閑静な場所を歩いた。

 そこはよく知った道だった。俺はその夏の道を味わうように歩いていた。


 暑いが静かなのと、仕事を終えたことで涼やかな気持ちだったのでそんなに汗は感じなかった。




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 ふと、道を尋ねてきた女性に声をかけられた。

 手には小さな男の子を連れていた。
 
 息子らしき男の子は、6つ、5つ。4つぐらいだったろうか。俺には子供の歳はよく分からないw。

 
 俺は歩き慣れていた場所だったので彼女が探している場所がどこかはすぐに分かった。


 「それじゃあどうせ同じ方向だから行きましょうか」

 なんて、そのご婦人と俺は目的の場所まで一緒に同行することにした。



 その人妻はショートヘアのよく似合う、素敵な女性だった。
 
 明るい色のワンピースによく締まった腰つき、スタイルのよい体を夏らしいゆったりしたワンピースが包んでいた。

 背丈は俺とそんなに変わりない。しなやかな印象を受けた。

 品の良い仕草をすると、肩が女性らしいカーブを描いて揺れた。


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 よくいる家庭の、素敵な奥様という感じだった。

 その雰囲気には何も不自由なところを感じさせないものがあった。

 余裕のある豊かな暮らしをしていることがひと目で分かるような女性だった。


 どうやら彼女はショールームに壁紙やらカーペットを見に行くということらしい。

 子供部屋の模様替えをするのだと彼女は言った。

 男の子は俺を疑わしそうに黙って俺を見ただけで、ちょっと挨拶はしたがそのまま黙ってついてきた。

 「人見知りするの」なんて母親らしく彼女は言い訳をした。


 子供は行きすがら、あちこちの塀や電柱なんかにまとわりついて、所在なさげだった。

 二人で歩調を合わせて婦人と俺、子供は俺たちについてきた。





 俺も子供の頃によく部屋の模様替えをしたものだった。

 まだ自分の空間、自分の作業場というものの実感がなく、それとなんとか折り合いをつけようとゴチャゴチャと色んなモノの置き場所を頻繁に変えたりした。

 自分のモノを置いている場所を変えることで何か自分の空間を支配できるような気がしたものだ。

 秘密基地、隠し場所、夢中になって俺は部屋をよく模様替えした。


 そうして自分の巣、自分の城というものを按配する、そんな気分になった年頃があった。

 俺はそんなことを彼女に話した。

 彼女は男の子特有の気持ちは分からないと笑い、俺の話を興味深そうに聞いた。





 彼女は、子供がそろそろ学校に行くことになるので模様替えをする気になったと言った。

 少しは気分を変えてしっかりしてくれればいい、それなら学校にやっても安心だ、そんな話を彼女はした。


 俺と彼女は夏らしくお互いに少し汗を拭きながら坂道を歩いたものだ。

 子供は相変わらず危なっかしげにフラフラと道のそこここを突つきまわしながらついてきた。

 高い塀が並び、クルマの通りもまるでない。


 俺はジャケットを脱いでいたがネクタイはしていた。

 俺は少し喋りすぎたかも知れなかった。


 時々、顔を伺うように彼女は俺を見た。そして、話を聞いているのだと、まるで安心させるようにニッコリと笑いかけてきた。

 その彼女の笑顔は爽やかではあったが、少しセクシーな陰影が含まれていると俺には思えたものだ。



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 人妻だという意識は最初からあったのだが、子供を産んだようにはとても見えない女性だった。

 時々、男の子の方に目を配る。それで母親なのだと分かる。


 そんな風に話をしているうち、俺には相手が女性だという意識が強くなってゆくのが感じられた。

 そばにいるはずの子供にしても、あっちこっちフラフラしているもんだからすでに眼中になくなっていった。


 ムクムクと、妙に切ないような、気持ちのよいようなムズムズとした感覚が頭をもたげてくるのがわかった。

 俺はこの人妻に恋をし始めていたかも知れなかった。

 下半身にわずかにたぎるような血流を感じた。



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 そのうち、どうやら子供部屋の模様替えは口実で、実はなんとなくカネを使いたいらしいということ。

 このところスレ違いで夫婦仲がうまくゆかず、子供をダシにして散在したいということ。

 それだけの人妻のストレス発散というあたり。

 そんな告解を聞けばなおさらだった。


 こんな何不自由なさそうな奥さんでも、えもいわれないストレスがあるものかと俺は思った。癒してやりたいという気持ちとともに増幅されていった。

 俺がこうして話をしていても彼女は癒されているのだ。

 きっと、俺の冗談はやや粘りつくようなものになっていったはずだ。

 彼女もまんざらではなさそうだった。


 彼女は散漫になった子供の行動を監視しつつ、俺のそばに寄り添って歩くようにし、聞き返したり詳しく話しを聞こうとしたり、俺に話を向けた。





 目的のショールームの入ったビルに辿り着くと、ひんやりとした冷房の空気を浴びて俺たちはほっと息をついた。

 汗が引きとたんに楽になった。


 そのまま俺も付き合ってなんとなくショールームに入った。 

 広いショールームは人気がなく、俺たちは好きなように歩き見て回った。



 俺たちはまだお互いのことを話していた。

 壁紙を見ながら、サンプルを見ながら、モデルにデコレーションした部屋のセットを見ながら俺たちは話を続けた。

 息子は面白そうに館内を駆け回っていた。


 俺と話込んでいる彼女はちょっと唇を舐めた。クーラーで乾燥したのかと思った。

 俺はそれに気がついた時、その唇を無性に吸いたくなったものだ。


 サンプルの壁紙やカーペットを見るついで、そんなフリをしながら俺たちはお互いに見つめ合った。

 取りとめない話に没頭しながら、どこかにあるはずに違いないモノ、何か違うものをお互いに見ようとしていた。





 あちこちからぶら下がっているタイルやカーテンのサンプルは色とりどりだった。

 まるで絵画をそのまま集めたように大きなフレームに入ってファイリングされている巨大なカーペットのサンプルの棚があった。


 そこに来るとひとつのサンプルに顔を近づけて彼女は頬づりしてみせた。「これ好き。」

 俺はそれを見て笑いながら近寄ると、カーペットの手触りを確かめた。

 目を細めていた彼女は、俺のその手に顔を近づけるような素振りをした。


 その時、ふと気が付くと、彼女の息子がつとそばに寄ってきて彼女の手を黙って引いた。

 息子はさっきから、明らかに俺のことを警戒しているのだった。


 ショールームは退屈などころか誤魔化されやすい迷宮で、母親を見失ってしまう恐怖を感じたというののか。


 まだチカラもない子供が、母親が異性との関係に走るのを警戒していたのだ。

 そしてその子はずっと俺の目を決して見ることはなかった。



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 しかし、どんなに通じ合ったとしてどうか。どんな親しくなったとしたって、この昼間だ。

 子供を置いてどっかにシケ込むというわけにもゆくまい(笑)。

 いったいどうできるというのか。


 そうは思ったが、彼女と俺の気持ちが接近しかけていることは紛れもない事実だった。


 こういうは理屈はあまりない。

 婚活にしたってそんなものだ。

 男女はどんな時でも相手を探してしまう。妻や夫というのはあくまで社会的な縛りでしかない。


 近づいてゆく感覚、それとも通り過ぎてしまう感覚か。

 とにかくある時間を過ごせばお互いに感覚で分かってしまうものだ。





 ところが、男の子はそれを早くから如実に感じていたのかも知れなかった。

 きっと俺と母親の彼女が落ち着いた会話をすることにすら危険なものを感じ始めたのだろう。

 まるで割り込むようにして男の子は無言で彼女の手を引いて違うコーナーへ連れて行った。

 彼女は甘えた息子を恥ずかしがるかのように俺に笑った。


 それから男の子は、俺たちが会話し続けるあいだも所在なげに辺りをブラブラするようになった。

 母親の視線を捉えようと彼女の目の前を横切り、退屈な風の体でウロチョロし始めたものだ。


 そしてあちこちのサンプルを引っ掻き回しては母親の手を煩わせたりした。

 俺がそれに手を貸すとガッカリしたようにしてまた違う手を考える。「ダダっ子」のままでは母親を繋ぎとめて置けないというわけだ(笑)。



 息子は精一杯の智恵を使ってあちこちのサンプル、モデルルーム、そんなのをあちこち引っ掻き回していたのだった。


 やがて彼女は息子を引き止めるのに忙しいぐらいになったものだ。



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 それは暑い夏の日だった。


 ショールームには人気がなく、俺たちだけを冷やす館内は静かで涼しかった。


 俺は突然、ふと思い出したようにして「連絡しなきゃいけなくなった、また今度。」と、そう彼女に声をかけると、立ち上がって忙しそうに退散した。

 スタスタと早歩きでビルを抜け、俺はそのまま後ろも見ずにビルの回転ドアを押した。


 息子の散らかしたサンプルを一緒に拾っていた彼女は、突然のことに少し声を飲み込んだようだった。

 彼女は遠くを見るようにして俺を見ていたはずだ。

 それが俺には背中越しに分かった。


 俺は名刺や連絡先の交換もないまま別れたのだった。

 俺はあの時、衝動的に立ち去ってしまった。





 マザコン気味に母親を盗られることを怖れたあの息子はあれからどうしたのだろう。

 無事に成長したのだろうか。

 毒親だった俺にはああいう経験はない。


 面倒なことにはあまり関わるべきではない。俺はそう思った。

 ましてやそれが行きずりの恋愛なら尚更だ。



 しかし俺は結局、そう思いながら一番面倒な関係を今の嫁と続けているのかも知れない。