きゃわイイ女

 嫁がかわいい。綺麗で自慢の嫁だ。籍を入れてないから正確には嫁じゃないんだけど。もう何年一緒だろうか。いつも一緒。いつもカワイイことを言って俺を楽しませる。最近、綺麗だと言わないと文句を言う。そんなに言ったら減るじゃん。

カテゴリ: 考察



 こんなことは言うまでもなく当たり前のことだ。

 中田氏しなければ妊娠はしない。精子と卵子が結びつくことはない。

 子供は産まれないのだ。


 しかし、俺自身もそうだったが妊娠させるなんて言うのはかつてはオトコたちには常に鬼門であった。


 石川達三の小説に「青春の蹉跌」というのがある。

 主人公はオンナを妊娠させてしまって逆玉の輿の邪魔になる。とうとうオンナを殺そうと殺人に至る、そんな話だ。


 昔はオンナを妊娠させることはオトコには恨みがましく思われていた。

 そんな時代があった。

 カネと社会的立場が子供を育てるには必要だ、そうした強迫観念があった。

 その結果が今の「少子化」という国力の低下だ。




 オトコたちは自分の人生が縛られると思ったものだ。

 輝かしく拓けかけた人生がわずか一度の過ちで閉ざされてしまうことになるのだ、と。


 責任や厄介ごとが降りかかってくるのだ、と。

 そうしてオンナを妊娠させることにオトコたちは恐怖した。

 そんな刷り込みが社会からあったことは事実だ。


 それは今の状況とよく似ている。

 後先を考えずに恐怖を煽り、危険なクスリを推奨し続け、人々は副作用で死んでいる。その数など知りようもない。


 ベビーブームの人口増で支配者層がきっと短絡的に恐怖したのだろう、その反動がこの少子化という有様なのだ。


 それは政治に賢明な判断など期待できないという事実を示している。

 連中は常に間違う。そしてその責任を負うことは決してない。


 小池東京都知事は意味不明の太陽光発電のために貴重な東京の緑を民意に問うこともなく勝手に伐採しようとしている。

 彼らが自分の愚かさに彼らが気付くことはない。




 しかし、誰だって自由で無責任な人間でいいはずなのだ。

 ことそれは男女間の関係にあっては特にそうだ。恋愛など成り行きでしかない。


 どだい何も自分の可能性に期待をかける人間なんかに誰もがならなくてもよかったのだ。

 だが、そうもいかなかった。

 世間のムードがミスリードさせた。


 そのうち、先の見えないこの世の中で、どうしたって子供など産みたいとは誰も思えなくなった。

 風営法の施行だってそうだった。アホらしい。明け方までのゲーセンやBar、キャバクラ、深夜の経済活動を制限してなにがやりたかったのか。

 「健全な青少年の育成」とか馬鹿なことを言っていたものだ。

 青少年が自由で乱れていれば子供なんていくらでもできたはずなのだ。

 政治は目先のことばかり、近視眼的で先を見通すことはなかった。


 しかもその愚かさの責任など政治家の誰一人として取ろうともしないのだ。

 意味不明のウクライナ支援、不審なワクチン、増税。こんな世の中で子供を産みたいと思う人がいるだろうか。

 誰だってこんな先の見えない時代に責任などむやみに負いたくはない、希望など持てないのだ。




 だが子供を作ることに責任なんてものなどないのかも知れない。

 俺たち古い世代のオトコは子供ができることで自由が縛られると思ってしまっていた。

 結局、それが少子化の根本的な原因だったんだと思う。



 しかし自由とは何だと問うことはできる。

 自由なんてものは責任とはまるで関係がないことだ。それは結婚とも出産とも関係がない。

 相手を妊娠させようが無責任でいたらいいではないか。もともとオトコなどそんなものだ。

 快楽を追求したらいい。


 少子化の課題に向き合おうとする時、そういう考えもできるのではないかと俺は思う。


 カネがあろうがなかろうが、子供を産むことは自然の成り行きだ。

 カネがなければ社会が補助すればいい。その命は社会にとっての宝なのだから。




 エロ漫画なんかではそういう嗜好をせっせと表現している人たちがいる。

 セックスをしてオンナを孕ませる、それがハッピーエンドとして描かれている。

 それはオトコにとっては至高の快楽だ、そんな感じの表現を熱心にしている人がいる。


 あれなんて少子化への歯止めになる立派な役割を果たしていると俺は思うのだけれど。

 無責任に中で出して、孕ませる。その後先など考えなくていい。

 こと性交渉の中では男女は獣に過ぎない。



 考えればなかなか悪くないのではないか。

 子を産ませることでそのオンナを自分のものにするのだ。

 種つけセックスは至高の快楽ではないか。

 自分の種を子宮に注ぐのだ。その悦楽をオトコは思い出すべきなのかも知れない。




 俺も今は嫁と中出しをするようになっている。

 もはや嫁は妊娠はしないが擬似的にそんな快楽を感じることがある。


 中田氏は至福の性行為かも知れないのだ、とつくづく思う。

 コンドームをしたり対外射精をしていた時とはまるで一体感が違う。

 お互いの体液が交わる感覚がある。

 キスにしてもそうだ。そんな愉悦がある。


 キスの感触を冷静に考えればたいしたものではないかも知れない。

 しかし体液を交換することと考えればまるで違うものだ。ドキドキする。興奮する。

 どれだけキスを長くしていても飽きることはないほどだ。




 正直、俺が育った古い世代では女を孕ませることには一種の恐怖感があったのだと思う。

 世間的にも、それはまるで悪いことのように思わせられていたものだ。

 意図的にそう思わされてきたのかも知れなかった。その大罪は誰にあったのだろうか。


 ベビーブームでは多くの子供が生まれた。人口増大の危機なんて話さえあった。

 今でも食糧危機なんて煽っているペテン師たちがいる。

 そうして人々にコオロギを食わせようというのだ。自分たちは血の滴るステーキに興じながら。



 今頃になって少子化対策などとはおかしな話だ。

 そのことにきちんと説明をしようとする人は誰もいない。ただのムードでしかない。

 今の状況を見ればわかるが、もともと責任など誰も取るつもりなどなかったのだ。



 俺たちは思い込まされてきた。

 子供は足枷になる。自由ではなくなる、と。

 自分が無責任かどうかが問われるのではないか、と。

 そんなことはない。学校があるし放っておいても子供は育つ。


 もし今、我が国の政府が少子化対策とか本気で言っているなら、それならそういう先入観を取り去るのが先決なのじゃないか、俺はそう思う。




 どだい性交というものに計画性などいらないのではないか、俺はそう思う。

 そんな計画性が入るから不純になるのだ。 とことんお互いに快楽に溺れればいい。



 快楽に溺れること、俺自身がそうしたことがこれまで十分にできていたのか、振り返れば実はあまり自信がない。

 それは情けない話だ。惨めな話だ。

 そこには後悔もある。もっとできることはなかったのかと最近はつとに思う。


 口づけの興奮やペニスを擦り付ける昂揚、俺は本当の快楽を知ったとは思えないからだ。


 だからこそ思う。

 遠慮なしに中に出して子供が勝手に生まれればいいではないか、とw。

 その後のケアを政府がしないからダメなのだ。


 もうすでに生まれている子供に「少子化対策」でカネ配って、いったいどうするつもりなのか。

 訳が分からないw。


 まさか18歳未満の子供に少子化対策を名目にカネを配るって意味、それはその若い連中にラブホでの中田氏推奨だっていうのだろうかw。

 笑ってしまうほどおかしい政策だと思う。

 いや、これまでの姿勢とまるで矛盾するからおかしいというだけだ。

 やれ青少年の不純異性交友だの円光だの、果ては淫行などと言って謗ったではないか。

 もらった給付金で若者はラブホに行ったらいい。





 結局、それはその政策の当事者たちにしてもこれまで子供を産むことに躊躇してきたからではないのか。俺は彼らの偽善を思う。


 そもそも孕ませることに計画性などいらないい。

 産まれたら政府や自治体に協力を頼めばいいだけの話だ。



 反対に、そんな「子作りは計画的に」なんて取り返しのつかないプロパガンダを広めたものだから、少子化を諦めて移民に頼ろうとする人たちもいた。

 安倍さんもそうだった。

 移民政策を考えた政治家たちはきっと少子化の現実を見て先がないと諦めていたのだと俺は思う。


 もっとエロを。性的なことなんてもっと無責任でいいのだ。

 LGBTだの何だのと性的趣味をいちいち難しくしないのが普通ではないか。

 それが自然な本来の姿ではないか、俺はそう思う。





 今のようなLBGTだのジェンダーだのというのは余計な雑音だ。

 意図して操作され、政治目的に利用されるだけのキャンペーンに過ぎない。


 オトコは出しオンナは孕む、それでいいではないかw。


 下半身の複雑な事情や秘密など他人と共有する必要はない。ゲイやビアンでは子供は産まれない。

 少子化でいよいよ国が滅ぶとさえ言われている昨今なら、今こそ中田氏をして快楽に耽る若者たちに期待するしかない。

 その面倒は見てやれる。



 なんなら俺たちの世代が手伝ってやってもいいのだが、それはどうかw。

 俺たちオッサンが若い娘を孕ませるのだ。

 オトコなんていくつになっても孕ませることができる。

 まあ、そんなことを主張すればしたでまた問題にしようとする連中がいるんだろうけどw。


 嫉妬やねたみばかりが想定できる。イデオロギーというものの根底にはそんなものしかないのか。





 子宮の中にドクドクと精子を注ぐと充実感がある。

 ビリビリと脚を痙攣させてオンナはイク。その震えはなかなか止まらない。

 オトコは相手をとことん追い詰め、自分のものにするようなサディスティックな感覚に駆られる。

 同時に相手へのいたわりも感じるものだ。


 女性は子宮とともに俺を受け入れ、「妊娠させられるかも」と絶望に似た諦めを持つ。

 それは悦びでもある複雑な感情だ。

 それが征服感となってオトコに還ってくるのだ。

 ただの射精ではない。それは射精を超える絶頂感だ。


 ピクピクと子宮がうごめき、それでもまだ精子を貪るように女性自身が俺を吸引してくるような感覚は特別のものだ。

 それは単に接触や性的刺激によるだけのものではない。

 命に関わる性交渉をしているというリアルがある。





 若い世代には今からでもそうしたことを味わって欲しいと思う。

 そうして子供が生まれたら好きなように育てればいいと思う。

 人間なのだ、ペットを躾けるほどの労力もない。


 人生は短いのだ。ここには俺自身の後悔も少しはある。

 何も少子化を老後の寂しさなどとは結び付けるつもりはない。そんなものは自分のことだ。なんとでもなる。

 ただ俺は快楽の追求がそれほどできていたのか、そうつくづく思うのだ。


 結合して最後の放出感はたまらないものがあるからだ。

 今では俺はそれを擬似的に味わっているだけでしかないがw。


 性行為に無責任たれ。 結局、今の世の中はみなが誰も彼もが無責任な状態ではないか。

 妊娠したら今度はそのボテ腹にペニスを突っ込んでなおもよがらせるぐらいを考えればいいのだ。

 オトコはオンナを征服するものだ。

 それは国の繁栄、それどころか持続性にもつながることだ。いいことづくめではないか。


 でなければ「移民と」いうことになる。それでいいのか。

 そうなれば日本の道徳や文化、価値観や秩序は大きく損なわれることだろう。


 今や中田氏上等!というわけだw。


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 人には様々な性癖がある。

 他人にはとても知られたくないようなものもある。

 それだから実現することができず、願望に留まっているものもある。

 性的なことは本来が表に出るものではない。しかし表の常識が我々を縛る。

 我々はそういう願望を社会生活の下で抑圧して生きている。


 だから実現できている人は幸福だ。自分を解放する時間があるのだから。


 ただ、それは外から知られるようなことはない。

 だから我々は普通は性癖を同姓と共有したりなんてしないものだ。


 LGBTムーブメントの胡散臭さはそこにある。

 気をつけた方がいい。

 下半身をひん剥かれ、男で勃つか女で勃つか、まるでかつてのユダヤ人狩りのようにされるかも知れない。




 赤ちゃん言葉を言って甘える性癖の男性がいるとする。

 彼らは外ではそんな性的嗜好を隠す。

 社会生活を営むなら当たり前のことに思えるだろうが、それは我々が「服を着ている」以上に注意深く隠されているものだ。


 それどころか、そんな人物は逆に妙に居丈高で、プライベートのそんな姿など想像もつかないぐらいだったりする。


 「まるで違う」なんて、この手の性癖では言われることがあるが、その人は別に豹変しているわけではない。

 日頃は自分の願望を抑えつけて隠された私生活で解放の機会を窺っているのだ。




 変態的な性癖がつい社会に出てしまい事件になると周囲の人が噂をする。

 普段の姿からはまるで想像できないなかった、なんて言われるものだ。


 しかし、それはその性癖に限ってその人物が変わってしまうのではない。

 そんな性癖は普段は慎重に隠しているのだ。

 抑圧しているだけなら事件になってしまうほど鬱憤が溜まってしまうこともある。

 どこかで人間は自分を解放してやらねばいけないのだ。 

 だから人は外とウチを区別して隠す。 


 そして、そうやって外とウチを区別すればするほど、解放された時の充足感は高いものになる。





 自分の密かな願望を実現したいと常々思っていて悶々としているような場合がある。

 実現したいのにできない、相手の無理解が怖い、相手に言えないまま抱え込んでしまっているような場合だ。

 カネも知恵もない若い頃なんてまさにそうだろう。

 挙句に下着なんかを盗んで事件になってしまったりする。

 彼女がいるのにそんな事件になってしまう。
 




 もし自分の願望の実現に踏み切れないというなら、やり方がある。

 毅然とした態度を日常のものとし、よそ行きの顔を持つことを心がけるのだ。

 いつも他人から自分が見られていることを自覚し、自分は外ではいつもよそ行きの状態なのだと心に決める。


 自分には外の世界に対して隠している性癖があるのだ。

 だから他人に決して心を許さず、ひたすら自分はよそ行きの状態であろうと誓う。

 そういうストレスを自分にかけてみればいい。

 そしてプライベートでは解放されていいはずだと自分を許すことだ。 




 そうすると、必ずそのストレスから解放されたいと人は素直に思うものだ。

 きっと自分の願望に率直になれるはずだ。そうでなくてはやってられない。

 恋人に、妻に、率直に自分の願望を告白できるはずなのだ。
 

 赤ちゃん言葉で甘えるとか、尿を飲んでみたいとか、脚に擦り付けてイキたいとか、ストッキングを被りたいとか、縛ってみたいとか、縛られてみたいとか、裸で街を歩いてみたいとか、それは何でもだw。

 女装したり、責めたり責められたり、あるいは様々なシチュエーション・プレイ、何でもそうだw。


 もし、これまで出来なかった自分の性の解放をしたいと思うなら、外面を整えるようにすることだろう。

 社会的な自分とプライベートな自分をキッチリ分けることだ。
 


 そういうストレスならいい。

 そんな風に社会生活を生きるのも悪くはない。


 解放される時間があれば悪くはないのではないか。

 メリハリが人生に生まれ、社会生活では成功さえできるかも知れない(笑)。



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 いやいや、前回の話、どこか誤解があったら困ると俺は思い直した。

 「デブ」、というか、ポッチャリな女性というのは実は性的に魅力があるのだ。

 誤解されても困る。

 「デブは嫌い」、そんなことを言ったって俺はそこまで否定するものでもない。


 だいたい表面積があるんだからその分は痩せた女性より楽しめるということになるじゃないか(笑)。

 それだけでもデブ女性の利点は科学的に証明できるだろう(笑)。



 豊満で巨乳、言うことがないではないかw。

 ちょっとぐらい腹に肉がついててもそれが何だというのか。それでいいのだw。


 かく言う俺も、実はAVなんかだとそっちがいいと思ったりする。

 気が付くとついムチムチした女性の動画を選んでしまう。

 巨乳でポッチャリ、ムチムチとしたの(笑)。





 要は、何が俺にとってヤバいと思うかというと、ポッチャリ女性に取り込まれてしまうということ。

 それで男として選択の自由がなくなると感じるところなのだ(笑)。


 彼女たちに隷属してしまうような感じがするのだ。

 食いつかれてしまうと、やがて俺の人生がなくなる、ポッチャリ女性にはそんな怖さがあるのだ。


 素敵なマイホームパパにならせられたり、タバコや酒を止めさせられたり。

 帰宅時間が把握され、週末のドライブが義務だったり、恒例になれば誕生日や記念日は何かをやらされるとか。

 やりたいことに没入することもできやしないだろう。オナニーだってできないかも知れない。


 自分の好みを我慢したり怒鳴ることさえできなくなるw。

 俺にはポッチャリ女性にはそんな気がしてならかった。





 だから俺は試したのだ。

 ついポッチャリの彼女たちに「プレイ」みたいにして強引に迫ってしまい、どこまで彼女たちが自由になるか試そうと俺はしたのだった。

 欲望のままに振舞って、それでも彼女たちは我慢できるかどうか俺は試したのだ。

 そうして挙句に嫌われてきたというのが俺だw。

 つまり、俺は何度もポッチャリに取り込まれそうになっていたのではなかったか。

 彼女たちが俺の態度を受け容れなかっただけでしかない。

 まあ、それはある意味では幸運だったのかも知れないけれどもw。




 俺のそんな理想を聞かされたとすれば、むしろポッチャリ女性の側からすれば嫌なことだろう。


 まるで俺を小さな子供のように包んで慰めてくれる女体。

 意味もなく泣く俺をただ撫でてくれる、そんな女性だ。

 その俺が求めるものは母性ではない。 何か、女性というものへの依存心の発露というものだ。


 だからもし、そんな俺の重たいものをポッチャリ女性が受け止めてくれるとしたらきっと天国かもしれないのだ。


 豊満な胸に顔をうずめて、太い太ももに俺の下半身を押し付けて、イッテも彼女は何も言わないでいてくれる。

 そうして、さすって、こすって、また出してくれたりする。

 全てを空にするかのように優しく触れて射精に導いてくれる。

 そんなことを考えてみれば、それはどんな愉悦かと俺は思う。


 しかしそういう趣味のポッチャリ女性はいないだろう。

 彼女たちの方はむしろオトコには甘えたいはずだからだ。



 むしろ俺が達すること自体が快感であるような女性、一緒に吐息すら漏らして俺を興奮させてくれる女性。

 俺はその豊満さに没頭し、没入し埋没する。

 まるで射精を彼女の肉の中でしているように俺は出し続ける・・・。



 しかし、ないだろw。

 それは(笑)。


 ないんだw。

 だから俺にはデブなオンナと接点がない。

 だから俺はポッチャリ女性が嫌なのだw。

 期待ばかりさせて結局はしてくれないってんだからw。




 世の中にデブ好きの男性という、いわく「デブ専」、そういう趣味があるというが俺はそれは嘘だと思う。

 ちゃんとそんな風に包んでくれるようなサービスをしてくれる女性を彼らは求めているはずだからだ。


 デブは人間失格とか、直せとか、ダイエット必須とか、世間的に言われることもあるが、それも嘘だ。

 すなわち、そのポッチャリしたカラダに期待することに彼女たちが応えられるかどうか、彼女たちが受け入れてくれるか、そういう内面的な問題なんだと俺は思う。



 だから、勘違いしないで欲しい。

 俺の場合はデブ嫌いとしてもAVではむしろ好きな方だし、そこらのオンナよりはずっと勃つ。

 彼女たちに性的な魅力はあるのだ。



 ただ、そういう俺の期待を知りながら拒否する女性が多かったというだけだ。

 彼女たちは大人のオトコを好む。

 だからそれがトラウマのようになって俺には縁が薄かっただけかも知れない。




 ポッチャリした女性で情に厚くて、ボロボロになった俺をその豊満な肉体で受け止めてくれる女性。

 そんなのは俺にだって素敵なファンタジーだ。


 しかし豊満な女性というのはたいていどこか保守的で、オトコに何かしらの保障を求めている。

 家庭を作るとか子供を作るとか、結婚するとか遊びではないとか。

 それがオトコには重荷なのだ。特に俺のような男たちには。俺は嫁と入籍すらできていない。



 無条件でヤラせてくれる豊満な女性なんていない(笑)。

 そんな噂があったり性的に奔放な女性なんてのは全く違うタイプだ。たいていは痩せ型だったり筋肉質だったりするものだ。

 行きずりにファックするなんて、それはシェイプされて意思の強そうなオンナだけがやることだ(笑)。

 豊満な女性というのはオトコをその先まで見ている。オトコはその値打ちが判定されている。

 それを俺は知っておくべきだった。


 ポッチャリは俺のタイプじゃない、なんて言ってても、結局はそういう判定から俺は逃げていただけかも知れない。

 豊満さに包まれる愉悦に逆らえるオトコなどいようもないはずなのだからw。

 


 人間としてのタイプというのはあるだろう。


 だから、そんな風に人生に保障を求めることを欺瞞だと考えるタイプもいる。俺はどっちかと言えばそっちだ。

 逆に保障のない性交渉や自由さをインチキや自堕落だと考えるタイプもいる。

 どっちが正しいかなんてことは分からない。



 俺はある時、悪友とナンパをしたことがあった。

 そいつはカネもなく、親掛かりのクルマしか持ってないようなつまらない奴だった。


 俺は自分で稼いだ金でガソリン代を払ってやり、そいつのクルマで遊びにでかけた。

 ぼやぼやとして覇気のない野郎だった。当然一緒にいても面白いわけがない。


 突然、俺は率先してやるからナンパしようと言った。

 やがて俺は二人組の女性を引っ掛けた。その相棒は何もしていない。

 
 ついてきた二人とは相性もよく感じて、俺たちはファミレスで喋り楽しく過ごした。

 相棒はボヤっとしてずっとヘラヘラとしていたものだ。

 結局は俺たちはホテルにシケ込んだ。




 二人ともとても愛想がよかった。

 ひとりはスレンダーで美女風。

 もうひとりはややポッチャリでカワイイ女だった。


 散々話が盛り上がり、お互いを分かって安心したところ、それで、もうどっかで寝ようということになった。

 もう明け方近く、夜中を回っていた。

 そしてホテルへ。

 俺がそのホテルのカネも出すことになったので俺が相手を選べるという流れに自然になった。

 野郎には文句など言わせないw。


 しかし俺はなぜかやはりスレンダーの美女と同衾しようと申し出た。ご指名の瞬間wだ。


 その時、ポッチャリがつい言ってしまったことには俺は少しショックを受けたものだ。

 「ええっ?そうなんだwww」、そう彼女は言ったから。

 どうやら彼女は俺の方がタイプだったようだ。

 彼女も可愛らしくてボリュームのある胸は魅力だったが、俺にはどこか「デブの呪い」が胸の底にあったかも知れなかった。




 部屋に入ってシャワーを浴びると、美女は豹変した。

 露骨に嫌な顔をして俺にキスすらさせない。


 その挙句に彼女は言ったものだ。「今日は生理なの」とw。

 どうも彼女は適当に夜の枕を探していただけだったようで、ファミレスでもずっと口を合わせていただけ。

 結局、俺はセックスもできず、彼女はそのまま寝てしまった。


 つまらん。

 実に面白くない。俺は少しイラついた。

 そうして、相棒の部屋へ電話で連絡して部屋に行き、俺はパートナーを変えようと言った。

 相棒はガキのようにそれを拒んだ。

 おいおい、彼女だってホントは俺がよかったんだぞw。


 しょうがない、俺はまた部屋へ引き下がって寝てしまったものだ。




 翌朝、彼女たちに俺は朝飯まで奢ってやり、二人は駅へと消えていった。


 帰りのクルマでそいつは言ったものだ。 「また会いたい」と。

 しかもそいつはその後もしょっちゅう連絡をしてきて、ヤツは「彼女のことはなんとかならないか」なんて言ったものだ。

 巨乳で、それがことの他よかったらしい。

 実はすっかりご執心というわけだw。


 あんまりしつこいもんだから、とうとう俺は言ってやった。「探偵料を払うってなら探してやってもいいぞ」と。

 もともとヤツには彼女がいた。 その上でこのアバンチュールだった。 だから連絡先など聞きようもなかったのだが、そいつはまた会いたくなったというわけ。

 しかし野郎にはカネなど払う覚悟もない。
 


 結局、この話はそのまま消えてしまった。
 

 だがもしあの時、彼女を探して引き合わせたとしたらどうだったろうと考えることがある。

 きっと後戻りできないことになったのではないか。俺はそんなことを振り返って思うのだ。


 ポッチャリには間違いなく誘惑がある。それにご注意されたしw。



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